桜の園

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・・・桜の園のない私の生活なんか、だいいち考えられやしない。どうしても売らなければいけないのなら、いっそこのわたしも、庭と一緒に売ってちょうだい。・・・・チェーホフ著 『桜の園』より
先日、気の置けない友人とお気に入りの名店で食事をした。カウンターのむこうには見事な桜の借景である。
「この桜は、どちらにお声掛けされてるのですか」そう聞くと、店主は気さくに応えてくれた。「以前、ここに木瓜を入れてもらったことがあるんだけれど、この景色に木瓜の紅はいらないんですよ」
まったくだとうなずいた。木瓜の紅はおもいし、生活の感がにじみ出る。自然に借りてきた景色をそこに置くには、土のにおいを思わせる木瓜より、山の匂い漂う桜がいい。ちょうど立春も過ぎて、山の目覚める頃だ。店主とお話をしていて、この桜を活けたお花屋さんが、もともと造園のお仕事に携わっていたときいて納得がいった。小細工をしたがるアーティストも多いけれど、良い意味でおおざっぱな、無骨がちょうどいい花の仕事もある。
師匠の活けた桜を思い出していた。
昔、師の下で一緒に仕事をしていた年下の男の子がいた。寡黙で華奢でたよりない、取り付くシマのない、つかみどころのない、なんだか細く滴る蛇口の水のような子だった。ちなみに師は彼に敬愛を込めて「鳴かないウサギ」と呼んで可愛がっていたのだから、あれはもっとひどかった。
そんな彼が活ける桜も美しかった。雄々しく、いじらしい桜だったと思う。 ところが、桜がよく似合う、といったら、僕は桜が嫌いです、といわれ、驚いたことがあった。
2月生まれの僕には桜の魅力はわからない。ましてあの散り方が好きになれないという。ああいう天邪鬼は若さゆえでしょうか。今頃どうしているだろう。
桜への美意識も人それぞれ。あとひと月もすれば、南から北へ、日本列島を桜が走る。
東京にいると、季節の変わり目とは、はじめもおしまいも定かならず、それと気づくのが遅れがちだ。春のうららかが続くようになり、日めくりを忘れてまとめてはがせば、あっという間に花の頃だ。そして油断した間に花は散る、になるのだから、全くうかうかしていられない。
今年も春だ。
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