もういちど

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「こんなときに そんな場所に届ける花の注文取ってどうするんだ!自分でやれ!」
1995年1月17日 阪神淡路大震災の直後でした。
「現地で知り合いがなくなったんです。せめて花だけでも届けたい」
震災直後の混乱する現地を思うほど、東京にいる者にも、せいいっぱいの想いがあったと思う。安請け合いをしたとは思いたくない意地があった。でも、無知は罪でした。今なら必然の判断が自分でできるけれど、やっぱり若かったと、いたたまれない恥ずかしさだけが込み上げます。
しかし当時は、何をしてしまったのか、何がいけないのかもわからず、上司のひと言に一蹴され、うけてしまった花の注文の受け入れ先を、わけもわからず必死で探す半日だった。たった一つの花、たったひとりの思い。どうにかなると思ったのは、あまりに無知で幼稚で甘かったのです。
今のようにインターネットも普及していない、新聞紙面にあるその惨状をみても、ちっとも実感がわかない。関西の広さが解らない。全くみえていない。そんな自分が、よりによって断れない状況を作ってしまった責任を背負い、関西の花屋に電話をかけ続け、その電話で、現地の混乱を受話器の向こうから知り、事の重大さを思い知るありさまでした。
一生忘れない。 無知は罪です。 
やっと引き受けてくれた現地の花屋がいて下さり、あのときの尽き果てた心にぽかんとやってきた安堵と、自分の無知を攻める思い、言い放たれた言葉へのやり場のない悔しさ、今日を迎えるたびに蘇る記憶。
正義感とお人好しで どうにかなる仕事なんて何もない と自戒したあの日を思い出し、忘れません。そして16年後の2011年3月11日も同じように思い出していました。同じ過ちは繰り返してはならない、無力を嘆いてる場合じゃない、冷静になれと、必死で言い聞かせていた気がします。
でも あまりに現実は悲惨で、あまりに悲しかった。
あれから3年の月日が流れた今日、古い記憶を思い出しながらも、大切な時間が、するりするりと指の間をぬけていくような感覚がある。投げ出したい気持ちと、ぜったいに乗り越えてみせる、という思いが、つねに交錯し続けた3年でした。
さまざまな出会いと別れを経験した3年。出会いは壊れそうな心をあたたかく包み、別れは自分の運命を切り開いてくれたと思いたい。無力を嘆くのは、そこに居ない自分を負かす甘えだと、今思う。かされた使命と最優先に守るべきもの。
今年は昨年よりも、現地を含め、各地に届ける周忌の花が多かったこの数日でした。気仙沼、大槌町、陸前高田、仙台、南相馬。届ける先があるかぎり、この花でつなげたい。何度かやめたいと思ったこの仕事を、何度もやめたいと思いながら続けてきました。でも
昨年訪れた 三陸の海を想い、仮設住宅にならんだ小さな花木を想い、網戸越しに見えたおばあちゃんの佇まいを想い、町に咲いたひまわりの輝きを想い、東北で出会った大切な仲間の笑顔を想い、かけがえのない友を想い、
もういちど もういちど、今 私にだからできることに せいいっぱい向き合いたいと、心から思います。
3月11日に。