うめ 桃 サクラ 上巳散文

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上巳の節句を前に先週末。何の準備もなく見切り発車した三月に、さっそく気持ちが置いてけぼりで、節句のことなど頭にもなく、なんとかやっと、今年もお雛飾りを出しそびれずに済んだ次第。そして、まったく桃の準備など忘れていた。店でお情け程度に残っていた桃一枝は、なんともお粗末な残り物だったけれど、無いよりはましと思い、わずかにひっついた蕾がこぼれないように、持ち帰ることにしました。
仕事場から自宅への帰りの道すがら、娘がそこに満開だった中鉢を指さし「この花もモモ?」といった。そこで「これのにおいをかいでご覧」といい、それから、あっちのも嗅いできてご覧といい、子供は濃紅満開の花のそばに寄った。まもなく、わあ、と声を上げてこちらに目をむける。こちらは桃、それは梅。
ね、この季節に、袖に触れるだけでも香るのが梅、消えそうに薄いピンクが桜、これが桃、と教えてみた。こんなときだけは、ひそかに花屋な自分、親の名利を喜んでみる。悪くはない。
東京の真ん中に住んでる限り、四季の移り変わりを知るのは、いつもいつも遅れがち。わざわざ名所にでも出向かなければ、下町の古い長屋の軒先の、大事に並べられた大きい小さいのバケツに植わった花木に、春だ夏だを教えられる具合です。
花屋のくせに、あまり花や植物に関して親子の会話がないのは、それを道具にしてせわしなくキリキリしている親をみて、子供なりの遠慮かもしれないと思っていたけれど、最近になって、この花は何?あれは何?と聞いてくるようになりました。
子供というのは、多かれ少なかれ、一番近くのおとなに影響を受けて育つのだなあと、思います。そこに父がいれば父、母がいれば母。だからといって、何も指南する気がない私もいます。 いちいち大人が先回りなどしないでも、自分でそのうち見つけてくれればいいと思いたい。普段は病的にせっかちな質のに、こういうところだけは気長でいられるから、ちょっと変わってるかもしれません。
先の話も総じて、最近 娘が植物に興味を持つようになりました。娘が唐突に、花を自分で飾りたいということがあり、どうぞお好きにと、したいようにさせるのですが、花はされるがままに投げ入れられて、気まぐれに付き合う花も嬉しいんだかなんなのか。気の毒な気もするものの、子供は楽しそう。
ああやって、何かを感じ、見つけてるのだと思いました。何もしない親からは、自分ですることを学んでるのかもしれず、ならば自分もしないとまねぶのかもしれない。どちらもを繰り返して、子供なりに、なにか感じてるのかもな、と思う。それをコントロールしようとするから、なんだか今どきの親子は難しくなってるような気もします。
今日は上巳の節句。四季を通じて娘の幸せを願う日だそうです。最近、花のことを図鑑で調べるそぶりを見せては、それを知らせてくる子供がいるのだけれど、別に花屋にならなくていいと、そのたびわざわざ言ってしまう親心、さて本音はどこにあるかな。
自分で自分の道を見つけてほしいと思う。私もそうであったように。
3月3日。 この一年も、皆々、健やかでありますように。